もうだいぶ前の話ですが、ある学長から、呼び出しがかかりました。学長は私に「精神科医は性善説で物事を考えるから・・・・」とやや不満げな様子でした。「そうですね」と答えました。
「性善説」とは、「人間には生まれつき善の性質が備わっている」という考え方のことです。古代中国の思想家・孟子が唱えた説として知られています。荀子が唱えた「性悪説」とよく対比されます。
「性善説」は通俗的には「人はみな本質的に善人であるという前提のもとに相手を信じる」「はなから相手を疑うようなことをしない」といった意味合いで扱われることも多いと思います。これは孟子の唱えた本来の「性善説」とはやや趣旨が異なりますが・・。
「性善説」の基本的な意味は、すなわち、孟子による「性善説」は、人間は先天的に「仁」や「義」といった善性を有しており、これを磨いてゆけば誰でも聖人になれる可能性を秘めている、といった考え方です。人が悪に傾くとすれば、それは本来的な性質ではなく、後天的に悪に染まるのだということらしいです。

孟子が説いた「性善説」は、人間は生まれながらにして善の心を持っていますが、放っておくと悪になる可能性があるため、善人になるためには努力を惜しんではいけないという主旨の考え方でもあります。要するに「誰でも立派な人間になれるが、そうなるには努力が肝要だ」ということを意味しています。
「性善説」は「人は本来善人だから信用するべき」くらいの意味合いで捉えられることがままあります。たとえば、「相手が不正を行わないと信じて取引する」ような態度を「性善説に基づいて契約する」のように表現することがあります。このような表現における「性善説」は、少なくとも孟子の説いた「性善説」とは別物であると思います。
「性善説」の語源は、思想家・孟子の言動や逸話をまとめた書物「孟子」の中に見出される「性善」という言葉に由来すると考えられています。「孟子」の中には「性善説」という言葉そのものは見えませんが、「告子上」編における告子との問答のくだりなどに「性善」の語を見出すことができます。。
では、「性善説」と「性悪説」の違いは何にあるのでしょうか?「性悪説」は、「人間の本性は善ではなく悪である」とする考え方のことです。孟子とほぼ同時代の中国の思想家・荀子が、孟子の性善説に反対して提唱したとされています。荀子は、人間の本質は悪であり、善は後天的に身につけつものであるとしました。つまり、人はそもそも悪に傾きやすく、悪を克服するために努力を要する(努力すれば善人になれる)ということです。
「性善説」と「性悪説」の違いは、人が先天的に持っている性質が「善」であるか「悪」であるか、という点にありますが、「性悪説」を唱えた荀子も、人は悪を克服して善人となるために努力をするべきと説いており、最終的な目標は孟子も荀子も同じところを見据えているのでしょう。
なお、荀子の「性悪説」における「悪」とは、「人間は弱い存在であって煩悩や快楽に流されやすい」といった「欠点」に近い意味合いの言葉です。人の本性は凶悪な暴徒であるというようなことを言っているわけではありませんので。最近の度重なる事件が報道されるにつれ、私はいつもこの2つの用語を考えてしまいます。自分はどちらかといえば、性善説に近いのですが・・まだ努力不足ですね。

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