今、私が道を歩いているとしよう。人が目の前に倒れていたら、どうするか?まず、声をかけて、意識があるかどうかを確かめるだろう。意識がなければ、脈があるかどうかを確かめる。無ければ、心臓マッサージを行う。そして、大声で人を集める。119番を電話する人。救急車を呼ぶために。110番を電話する人。警察を呼ぶために。人の命がかかっている。助けたいと思うのが本能であり、正義である。

こんな当たり前のことが、許されないことがあってよいのでしょうか。私は、許されなかった事実で、訴えられ罪人にされたことがあった。私にとって、正義であっても、別の人から見ると、正義ではなかったようである。バングラディシュの留学生(博士課程)の息子さんがプラスティックの破片を飲み、S県医療センターの救急部に搬送。救急部のスタッフは最善を尽くして、異物を取り除こうと頑張った。しかし、もうその破片を取り除くことはできなかった。子どもは一晩中、泣き叫び、一睡もしなかったという。その母親は混乱して、私の元に訪れた。子どもの寝せてください。気が狂いそうです。医療センターの先生が、私のところに相談へ行きなさいと指示した。どこの県でもそうであるが、英語でコミュニケーションできる医師が少ない。あんなに長い英語教育を受けても、現場で通用する英語を身に着けていない。その話を聞いて、息子さんはここに連れてくることはできますか?できません。との母親の鳴き声。かなり混乱している。この睡眠導入剤を半分にして息子さんを眠らせてくださいと指示した。今の日本であれば、夫が大学院生ゆえに、その家族は大学保健管理センターが対応できる人ではない。しかし、精神科医で英語対応できる人も見当たらない。大学は、私に「無診察処方」という医師法に違反しているゆえ、私は大学の顧問弁護士から懲戒処分を受けることになった。この罪状は正しいだろうか。未だに私は恐怖を覚えている。

息子さんは数日よく眠れて、元気になりました、と母親は伝えてくれた。ほっとした。私は大学にいることが難しくなった。罪人扱いである。医療センターの救急医からは感謝の言葉をいただいた。その後、その留学生は博士号を取得して、無事にバングラディッシュに帰国した。

そこで、私がこだわる「正義」とはなんだろうか。現場を知らない医師がいくら正義を唱えても、所詮、理想論である。愚かである。道に倒れた人をみた場合、素通りする人の正義とはいったい何なのか。私は何が正しいのか、わからなくなり、本を書いた。「がんと死の錯覚」この本を読んで、再び、犯罪被害者支援NPO法人「佐賀VOISS」は私を再び理事として向かい入れてくれた。ありがとう。やっとわかる人にはわかるんだなあと思った。

今、行われているあらゆる紛争。市民を犠牲にして、英雄になりたいのか。あれだけ多くの犠牲者を出して、勝ちたいのか。なぜ、そこまでして、勝負にこだわるのか、私にはわからない。正義とは一体何なのだろうか。私はこの矛盾を抱えて、約4年間、眠っていたが、やっと目が覚めようとしている。

弁護士と相談して、再び、正義とは何かを議論することになろう。




